※以下は2016年秋の旅行記です
ポグラデッツからお隣の国マケドニアのオフリド市に行くことにした。
車で1時間弱ということなので日帰りでも十分行けそうだ。
ポグラデッツからオフリドに行くには、まずミニバンに15分くらい乗って国境まで行く。それから入管を通ってマケドニアに入り、バスに乗り換えてオフリド旧市街まで行く。ホステルのオヤジから教わった通りの場所で、ミニバンらしきものが止まってたので、声をかけた。
「ごーとぅーオフリド?」
運転手は黙ったまま一回すっと首を横に振る。
これはYesということだと理解するまで数分要した。
バンは15分くらいで国境に着いた。車が列をなしていたが、私は歩いて通過しようと思っていた。すると1人のアルバニア人の男がわりと流暢な英語で話しかけて来た。

アルバニアとマケドニアの国境
「オフリド市内まで30kmあるから歩きは無理だよ、僕は今日オフリドで用事があるから市内まで君を連れて行ってあげる。帰りも乗せて帰ってあげるから〇〇レクでどう?」
私はバスに乗ると言って立ち去ろうとしたが、こいつがなかなかシツこい。断っているのに追いかけてきて、自分のパスポートなんかを見せてくる。今の私ならこんな輩はガン無視だが、その時はアルバニアの非観光地的接待で耐性を失っていて、押しに負けて車に乗ってしまった。
乗ってすぐに後悔した。
バスの本数が少ないなんて出まかせに決まってる...こいつは非合法な個人タクシー業者だ...要求金額も法外に高いに違いない....アルバニア人の中では異例の胡散臭さ放つ男の車になんで乗ってしまったんだろう......
後悔が止まらない中、車はアルバニアの国境を通過し、マケドニアの国境を越えようとしたところで問題が発生した。理由はわからない。とにかく入管の職員と男が激しい言い争いをはじめ、職員は私に車から降りるように言った。職員は私にマケドニアに何しに行く?と尋問。
「オフリド市内を観光して今日中に戻ります」
「路なりに5分歩け。バス停があるからそこでバスに乗って行くんだ」
はいそうするつもりだったんです!と嬉しさ半分と動揺半分。
自分の足と公共交通機関だけで行こうと心に決めたが、歩けども歩けどもバス停がない。10分以上は歩いてもあるはコンクリの道路。と乗用車、いちいちクラクションを鳴らして「乗らないか?」と止まるのである。中には金額を提示する者もいて、タダで乗せてやるよと言う人もいる。低速で私の方を無言で視線を送るだけの者もいる。いちいち断るのが面倒になって今度も押しに負けて静かそうなアルバニア人の男の車に乗った。
「いくら?」
と若干イライラした声で聞くと、男は「...None...」と遠慮がちに言った。乗せてくれたのに申し訳ない。この天罰はその日のうちに下された。

マケドニア・オフリド旧市街
カネが正常に回っている世界に帰ってきた
マケドニアに入った第一印象。自分がよく知る世界の側に戻ってきたな感。
北朝鮮から韓国に渡ったら同じ感覚がするんだろう。資本が回って、余剰物とカネの循環が行き届いている世界。道路がキチンと舗装され、古くなったものは定期的にその機能が損なわれる前に新しく買い換えられ、道路にゴミや動物の死体がなく、芝生が緑。自然のメカニズムと人間の領域が明確に線引きされている。それが砂埃の一粒に到るまで当たり前のように実現されている世界。こうして隣国に一歩足を踏み入れて見ると、アルバニアと言う国が近隣の国といかに明確に線引きされ、独自のやり方で存続してきたのかというのが実感できた。
資本主義と社会主義の境に加え、イスラーム文化とキリスト正教文化の境も濃い。アルバニアから一歩外の隣国に出れば、もうモスクはない。もちろん海を渡ればトルコがあるが。
なぜバルカン半島の他の国と違って、アルバニアだけがオスマン帝国支配時にムスリムへの改宗が進んだのか。その偶然か必然がアルバニア独自の文化の核となり、社会主義からの鎖国への独自路線を走らせたらしい。
と感慨にふけりながらオフリド旧市街を観光するも東方正教会の美しい壁画や建築を見にきた観光客でごった返した活況にいささか面食らってしまった。観光地はどこもディズニーランドと変わらない、あるのは夢「ここは東方正教会の聖地」と「記念」洗脳;ロゴ付き磁石やらマグカップの山と、ソフトクリーム....
旧市街は教会や、城跡と言った拠点ごとにキチンと入場料をとる。ボランティアガイドがいて、説明が終わるとチップをくれと言う。私はユーロかレクしか持っていなかったがユーロでいいという。東欧中、中東方面からも観光客がきているみたいだった。こんな一大観光地だったとは.....半時間ほどで静かなアルバニアが恋しくなった。

キリスト教世界最古級のモザイク
確かにモザイクは綺麗........な筈だ。そもそもキリスト教がカルトだった時代に教えを語り継ぐメディアであったモザイクは聖書の物語を文字ではなく絵で表現したものだから(魚=キリストのように)知性の伴わない"純粋な"美意識で味わえるものなんてほとんどない。言うなれば絵の形をした文字なのだ。聖書知識皆無の頭についた目からも糧を得られるようにガイドが解説するが、突然「聖書の〜〜の章のあれよ」なんて言われても真新しい知識を咀嚼するのは一朝一夕といかない。
悔しい。
すなわち、ありがたいモザイクから解読できたのは「出直してこい」だ。
帰ろうと決めたのは昼前だった。アルバニア国境までバスがあるはずだけど歩きたい気分だった。
来るときここまでずっと一本道だったし、途中までオフリド湖に沿って歩くのは気持ち良さそうだった。30キロ、車では約40分。私は中学のころ体育のマラソンで3キロを約20分で完走した記憶がある。20分×10で約3時間。走るのではなく早歩きなので2倍の6時間くらいで国境まで行ける計算だ。今はちょうど昼だから夕食時くらいまでにはアルバニアに入れるだろう。この計算は全くの不正解であったことが後に判明する。
さあ出発だ。

大観光地なので人通りが多いオフリド中心

沈みゆく太陽を追いかけながらひたすら湖沿いを歩く

まだまだ余裕だと思いながら、暑いのでダウンを脱いで歩く。汗を流す

やたら木の写真を撮る

家族連れ

やたら木を撮る

湖って海とちがって波の音がしなくて、ずっと見ていると穏やかな気分になる。
旅人と再会
アルバニア側から走ってきた乗用車が一度通り過ぎ、バックして私の隣に止まった。渋いおっちゃんが運転している。その助手席から手を振ってる女性。ベラトの宿で一緒だった台湾人女性だった。
「わー今からマケドニア?そうかそれからブルガリアに行くですよねーわー」
と嬉しくなる。運転手のおっちゃんが
「もうすぐ日が暮れるからこの車に一緒に乗って、今夜はオフリドの宿に泊まりなよ」
と言う。私はオフリド(30分)観光をし終えて、宿があるポグラデッツに歩いて帰ると言う。おっちゃんが言う。
「歩いてポグラデッツ?国境まであと20キロ以上あるぞ」
え、嘘
気分的にはもう中間地点は過ぎたと思っていたので、めっちゃ焦るが
「日が暮れたら、適当にヒッチハイクするから大丈夫!」と言って別れる。
私が捕まってしまった胡散臭いおじさんとちがって、あの台湾人が捕まえた運転手はめっちゃ優しいし、英語上手だし、渋くてカッコいい。さすが旅玄人だ。ベラトでまるで黒子のように自分の存在を消して撮影していた姿といい、改めて尊敬だ。

日が落ちる

夜のとばりが下りる
日はあっという間に暮れた。道は一本で道なりだし、10キロは歩いたからあとその2倍歩けばいいってことでしょ?だ、だ、大丈夫、大丈夫!ここまでは写真撮りながらゆっくりし過ぎたのだし!と思いながら急ピッチで歩くがすぐに大丈夫ではないと悟る。
まず、暗いのだ。街灯がほとんどない。たまに通る車のヘッドライト以外光源がない。iPhoneでしばらく足元を照らしていたが、途中木の写真を撮り過ぎたのでバッテリーがなくなった。
そして寒さだ。山の気温は日没とともに秒速で冷えていった。日中暑くて脱いだダウンを羽織り、チャックを首元まで締める。それでも冷気がジーンズをしみて体温を奪っていく。手や首元から氷のように冷えて行く。
これはダメだと思った。こんな暗くて足元もおぼつかないから歩きからマラソンに切り替えるわけにもいかない。そもそも10キロを5時間で歩いたのだから、このまま歩いたら朝になってしまう。
人生で初めてヒッチハイクをすることに決めた。
行きは歩いているだけで向こうから話しかけてくれたのに、帰りは自分を追い越して行く車はみな「飛び出してくんなよ」という意味でププーとクラクションを鳴らして徐行する素振りもなく通り過ぎて行く。森の静寂の中、遠くから車が走ってくる音が聞こえる。「よしこの車に乗せてもらおう」と決める。遠くからヘッドライトがほんのり足元を照らし始める。
「よし、今だ!」と意を決すが、手が上げられない。自分を乗せようとして入管で怒られたおっちゃんの車だったらどうしよう、「乗せて欲しけりゃ1万ユーロ払え」とか言われたらどうしよう。そんなこと考えると手が上げられない。手を挙げるという行為自体、小学生以来やっていない気がする。皆大好きな多数決をとるときも私はずっと“中立”という立場をとるために手を上げなかった私。いやいや、ティラナでも声をかけ続けたら道がひらけたじゃないか。自分に打ち勝つんだ。と自分を鼓舞するが、手を挙げることが恥ずかしい、ちっぽけな自尊心が手を挙げさせなかった。
何台もの車がアルバニア方面に走り去っていく。だんだん、「別にヒッチハイクしなくてもよくね?」と不要な自尊心が自己を正当化し始める。「だって道なりじゃん、道路も舗装されてるし朝まで歩けば別に良くない?その方が冒険じゃん」この主張に納得して胸元まで上がっていた手を下げる。
“冒険”の中でボソりと何かが声をあげる。
「今........たった今....自分がサイコパスに殺されてバディを透明にされたとしても誰も気づかないんだろうな」
私は儚い。
ピンッと手が上がった。3台目で車が止まった。あの胡散臭いおっさんでは幸いなく、ポグラデッツに住むアルバニア人兄弟の車だった。後部座席は物でいっぱいだったが、「ポグラデッツに行きたい」と言うと手際良くスペースを作って乗せてくれた。お兄さんの方は全く英語が喋れず終始無口だったが、ガサゴソとチョコレートを取り出し、笑顔で手渡してくれた。弟の方は洋ゲーで学んだというかなり流暢な英語を喋った。
「大丈夫、ポグラデッツまで送るよ」
寒さに震えていた全身が後部座席で融解する。

ひたすら歩いたマケドニアのアルバニアとの国境
アルバニア警察
入管で通せんぼを喰らった。今度は私を乗せてくれた優しい兄弟の車が没収されてしまった。入管はクリント・イーストウッドを怖くしたような見た目でいかついゲシュタポを思わせる制服を着ていた。長い間兄弟と議論を交わしていたが、車は返してもらえず、私たちは近くのカフェに入ることになった。カフェというか閑散期のレストランで、遅い時間でもないのに、広々とした店内に並ぶ大きなテーブルに椅子を上げていて、照明を極限まで絞った暗い店内で店員は私たちにティーバックとカップ入りのお湯を出すと、ダラダラ掃き掃除に戻った。私には気になっていたことがあった。
「私(ピチピチの女ガイジン)を連れているからこうなったの?」
「いや、アルバニアの警察は何かとイチャモンをつけて賄賂を要求するのさ」
兄弟には何の非もなく突然車を差し押さえて、「返して欲しけりゃ金よこせ」ということらしい。兄弟は友人に電話をし、迎えに来るように頼んだ。
弟は私よりも年下だった。英語がとても流暢なのに大学にも行かず、定職にもありついていないとのことだった。"ヤクザ"なんて日本語を知っている。
「そういえば、ポグラデッツに映画館ってある?」
「昔はあったけど無くなったよ」
「そうか、っていうか"アルバニア映画"ってあるの?」
「今、徐々に作り始めてるところだと思うよ、でもまず経済がよくならないことにはね、EUに入ろうとしているところだけど、上手くいってない」
「EUだって上手くいってるとは言い難いし、アルバニアはこれでいい国だと思うけどなぁ」「そう。アルバニアはとってもいい国さ。アルバニア人は他人に卑屈にもならないし、意地悪にもならない。外国人にだって注目もしないし、嫌いもしない」
「そうそう、そういう感じが好きなんだよね」
「あ、でもコソヴォの人はバカで野蛮だから行かない方がいいぜ」
「そうなんだ笑」
「あと、ポグラデッツはまだ観光とかあって栄えてるけど、アルバニアの本当の田舎の人間は他人のことを考えない。ポイ捨て平気でするし、人が困ってても無視する」
同じようなセリフを私はパリで聞いた。少なくとも2016年当時、エスカレーターのないパリの地下鉄で大荷物を持って私(ピチピチ20代アジア女)が一人階段を登ろうとすると、必ずと言っていいほど男の人が立ち止まって荷物を持ってくれた。「パリの人はみんな親切」というと、ある人は「それは君がパリの中心にいるからだよ。パリの北に住んで同じことが言えるか試してごらん」と。
私はオフリドは大観光地でつまらないと思ったけど、外国で私たちが見ているのは、その国の選ばれし栄えた美しいものの断片でしかない。貧困で教育の機会も移動の自由もそれを考える余裕すらなく卑屈にならざるを得ない人の住むエリアはたいてい観光地からは程遠い。私はその人たちに行き届くことのない、経済サマの恩恵を受けた、舗装された道路、バス、ホステルのある街と街の間を安全な動線上で旅行しているに過ぎない。
場所が違えば私は死んで当然だった。
彼らの友人の迎えの車が来て、兄の方が入管から車を取り戻した。なぜか助手席にはあの入管の意地悪イーストウッドが乗っていて、ちゃっかり家まで送ってもらっていた。「そろそろ上がりだから送りの車を差し押さえよう」てことだったの.....? でも車内では兄弟と親子のように楽しげに話をしていた。